2015年6月27日土曜日

長々と書いたけど、結論はシンプル。



人間はその他の動物よりも遥かに優れた「知性」を持っている。
これが周知の事実であることは間違いないだろう。


この知性無くしては、愛玩動物の代名詞である犬にすら勝てないだろう。
知性があるからこそ今日の人類の繁栄がある。


そもそも、知性とは一体何だろうか?



少なくとも自分自身は知性とは「苦悩を乗り越える力」だと考える。


知性とは精神の筋肉だと言い換えてもいいだろう。
苦悩と対峙するという負荷を与えなければ、筋肉は肥大しない。


かといってむやみに苦悩に飛び込んでいくのではダメだ。
筋肉を肥大させるためには負荷だけではなく、十分な栄養と休息が必要だからだ。


精神における栄養と言えば「知識」だろう、栄養無くして筋肉の肥大は起こり得ない。
もちろん栄養バランスは極端に偏ってはいけない。


休息は肉体も精神も同様に言える事で、睡眠に違いない。

ただ、人それぞれ「調子が良くなる睡眠時間」が違うようなので
俺の場合では8時間でも他の人にとっては長過ぎたり短過ぎたりするだろう。



つまり「苦悩」と「知識」と「睡眠」の三本柱があってこそ初めて「知性」は宿り、育つのだ。


そうして宿し、育てた後に新たな疑問が湧いてくる事だろう。
人間らしい最低限の知性を十分得た後にそれ以上の知性を育む意義はあるのだろうか、と。


意義はあるには違いないのだが、必要以上の知性は個人の嗜好の問題になってくるだろう。
俺の答えとしては「必要は無いが、意義はある」と言ったところだ。


生活に支障の無い程度の筋力さえあれば
ボディビルダーやアスリートでも無い限りそれ以上の筋肉は必要ないだろう。


しかし知性は筋肉であって筋肉ではない。
普通の筋肉ならば物理的・生物的制約があるが、精神の筋肉である知性にその制約は無い。


つまり命ある限り、際限なく知性を育む事が出来るという事だ。


苦悩を乗り越える力が知性だと言うのならば
極端に言えば知性を極限にまで高められた時、全ての苦悩は苦悩では無くなるだろう。

その境地に生きている間に辿り着けるかどうかは保証しないが。


十二分に知性があれば鬱という名の肉離れも起こらないだろうし
知識ばっかりで知性が追いついていない精神メタボと揶揄される事も無くなるだろう。


どちらも日頃からケアしていれば防げるものではあるのだが・・・。
とにかく、俺自身は知性はあればあるほど良いと考えている。

自分には知性が足りないと自覚しているだけに。


まあ自分たちは製品として生み出されたのでは無いのだから
生まれてきた意味など考える必要は無いし、「こう生きるべきだ」という啓蒙にも従う必要は無い。


人間以前に生物であるのだから、もう少し多様性という言葉に甘えても良いのかもしれない。
物事に正しいだとか間違ってるだとか、優れているとか劣っているという事は無いのだから。


 
ただ、自分がそれを気に入るか気に入らないかは話は別である。
何たるエゴイズム!しかしそういう考えの方がシンプルで自分は「気に入ってる」けども。



久々に更新したと思ったらふと思いついたひとりごと。
次こそはスロ記事更新する予定。

なるべく新しい台の記事を書きたいと思ってるけど、ちゃんと更新できるかな・・・。




ブログランキング・にほんブログ村へ
↑押してくれると嬉しい!


人気ブログランキングへ

2 件のコメント:

  1. 毎度毎度コメ書くけど飛ばないんだよなー
    まぁいいけどな。わしの腐れた言葉なんて届かなくても困りもしないわけだし。
    デビサバじぇんじぇん日にち進まないんだけど。800で0だったからどんななんだって思っています。わたし、思っています。

    返信削除
    返信
    1. >匿名さん

      Bloggerの仕様なのか分からないですけど
      コメントを反映せずに勝手にスパム扱いしたりしたりするんですよねえ・・・。

      基本的に色々出来るんでBloggerに特に不満は無いんですけど
      そういう所が気になるんでコメントしてくれる方には申し訳ないですね・・・。

      デビサバは最近あんまり狙って無いですねえ。
      1000ptスルーした時がとにかくダルくって・・・w

      サバイバルバトルはホント低設定は入りませんからね・・・。

      削除